会津若松市内の観光コースを会津若松駅を起点に、右回りで一周しているのが
赤い色のミニバスの「あかべぇ」で、左回りなのが「ハイカラさん」で青い色
と赤い色のボンネットバスですが、両方とも会津バスの普通のバスにそれぞれ
のキャラクターが掲示してあるだけの場合もあります。
人気スポット割引入場券セットというセット券の販売もされていて、鶴ヶ城と
会津武家屋敷、野口英世青春館の三つの施設の入場券がついています。
基本的に一周する範囲内の施設なので、お得なセット券を購入しました。
まずは「あかべぇ」に乗って会津武家屋敷に向かいました。
市内の市役所前とか、短大前などの停留所があって地元の生活の足にもなって
いるので、観光客メインではルートを通るので、キャリーケースとかがあると
ちょっと地元の人に迷惑かなという印象はありました。
出来れば、観光用ルートと生活者メインのルートを分けてもらえると利用者と
しては使いやすい印象はありましたが、全国的にバスのドライバーが不足して
路線を廃止したり運休する例もありますし、止むを得ず減便をしている地域も
増え続けているので、致し方なしという感じかな。
それはともかく会津武家屋敷に到着しました。
階段の両脇には雪が残り、東京から私鉄電車で来ることが出来ても気候は東北
であることを実感しました。
門の入り口脇には、会津藩の元家老である西郷頼母の養子として育てられた後
講道館の師範代として活躍した西郷四郎の銅像がありました。
得意技の山嵐の伝説が残り、後の姿三四郎のモデルとして有名な存在になった
柔道界の功労者だそうですが、戊辰戦争の時には幼児だったので直接的な関係
はなかったような気もするのですが、会津の有名人ということなのでしょう。
門を入ると玄関では、お女中が迎えてくれます。
東京を出る時には全く雪などありませんでしたが、この日の夜には、また少し
雪が降りました。(寒かったです)
駕籠部屋には江戸時代の駕籠が展示されていました。
重量は30キロあるそうで、家老といえども特別な場合以外は使用不可だったと
いうことのようです。時代劇のように気軽には使えなかったようですね。
駕籠だけで30キロあったら、今ほどの体格は無いにしても80キロ以上はあった
と思うので、そんなに頻繁に使われたら家来はやってられんと思います。
独り身の家臣は、警備も兼ねて屋敷内に住み込みの部屋があったようです。
持ち家を持つほどの俸給もなかったでしょうから、住み込みで食事も提供して
もらえるなら、その方が暮らしも楽だったことでしょう。
会津藩では藩士の子弟は「什」という教育組織に参加して、集団生活の秩序を
学び武士の心構えを身に付ける制度があり、その組織には掟がありました。
年長者の言うことに背くなとか、現代ならパワハラと言われそうな内容もあり
弱い者をいじめるなといった、現代になっても変わらない正論もあります。
江戸時代から「いじめるな」という掟があっても、いまだにいじめを苦に自殺
する子がいるとか、人間はそれぞれの人が考えているほど、優秀な生き物では
なく愚かな部分を引きずったまま100年以上、生きているようですね。
城からの使者が待機する使者の間という部屋がありました。
連絡がある度に、城から使者が出向かなければならない、というのも面倒な話
なんですが、携帯電話もポケベルもない時代なので生身の人間が走るしかない
ということなのでしょうが、使者に選ばれた人は光栄だったのかな?
その時代ごとに重要な役割はあるので、責任ある仕事には違いないですね。
庭を見ながら奥に進むと殿様と謁見する部屋がありました。
それとは別に会津に官軍が攻め入った際、西郷頼母の一族21人の婦女子が戦い
の足手まといにならないようにという理由で自刃したという悲劇の場面が人形
で再現されていましたが、そのような場面は写真に撮りませんでした。
後に薩摩藩士の川島信行の言葉として、西郷邸に踏み込んだ際、奥の部屋へと
進むと男女の自害した遺体が折り重なっていたが、その中に一人の女性が死に
きれずに息があり、【長女の細布子(たいこ)16歳】川島に対して、そちらに
参られた方は敵ですか、味方ですかと尋ねたため、不憫に思った川島が思わず
味方だと答えると、止めを刺して欲しいと懇願されたため介錯をしたが、涙が
止まらなかったと伝えられているようです。
いろいろな文献で微妙に表現は違いますが、遺体は善龍寺で祀られているので
事実としてあったことでしょう。
官軍は正規の武士だけでなく愚連隊のような組織だったので、占領下での女性
に対する暴行(強姦)は有名だったため、敵に辱めを受けるよりはと自害する
女性は200人から300人いたとされています。
伝承では長州藩、大垣藩が特に素行が悪かったようですが、真偽は不明です。
戊辰戦争では、会津藩の戦死者を放置して犬やネズミ、カラスに食わせたとか
官軍の蛮行が有名なので、かなり傍若無人な行いはしていたようです。
というような伝承もあるので、会津武家屋敷はあまり居心地の良いところでは
ありませんでした。会津武家屋敷を出た後は、再度あかべぇに乗って鶴ヶ城へ
と移動しました。
ですが西郷頼母を知った時は最悪な奴と思いました( ̄▽ ̄;)
コメントありがとうございます。
自分の奥さんと娘たち、母親と姉妹、さらに親戚まで一族が集団で自害
しているのに、官軍に降伏を進言して戦うことなく生き残り、松平容保
とともに天寿を全うした卑怯者ですから、呆れ返りますよね。
抵抗した責任を取って、本来なら家老である自分(筆頭家老二人は自刃
していたので三番目の席次が西郷頼母)が切腹するべきところ、四番目
の席次の萱野権兵衛が全ての責任を背負って切腹しています。
籠城戦によって戦死者1400名、婦女子の死者600名とも言われる戦争で
城主の松平容保と家老の西郷頼母が生き残り、日光東照宮の宮司と禰宜
を務めて地元で穏やかに亡くなったとか、(・д・)チッという対象です。